1948年6月28日午後4時13分。福井平野を震源とするマグニチュード7.1の地震が発生しました。地震動は強烈で、震源地付近では住宅全壊率100%の集落が多数出現しました。当時は終戦後間もない時期で、この3年前の「福井空襲」で焼け野原になり復興途上にあった福井市でも、全壊率は80%を超えるほどだったのです。空襲で焼け野原になり、さらに地震でまた焼け野原になったわけですが、建物の倒壊だけではなく、夕飯の支度時間ということもあって、あちこちから火災が発生し、類焼していきました。
この写真は、福井地震で倒壊した「大和百貨店」ですが、これがアメリカの「LIFE誌」に掲載され、衝撃の光景となり一躍、全米でも注目を受けた一枚となりました。以前のブログでも、福井地震のときの学校の対応記録が「福井県教育総合研究所 教育博物館」にて公開されていたことを話題にしました。
小学校の教員の方が残念なことに震災により亡くなられたことなど、生々しい記録の記載がありました。福井地震の被害状況は、以下の通りです。
上記のリンクは、「福井地方気象台」の福井地震資料のページですが、その中でちょっと興味深いものがあります。それは、福井市から以北にかけての地層的なものの分布と、家屋の全壊率の図示です。
九頭竜川下流域である、福井市、春江町、丸岡など、「沖積層」が広がる福井平野全体では、震源地とみられる森田町より遠く離れた芦原町(現:あわら市)でも、70~90%の家屋全壊率となっていますが、砂岩、安山岩などの地層帯である、永平寺、松岡方面では、家屋全壊率が30%と急に少なくなっています。これを見ても、地質的な部分の違いで被害レベルが変わることはわかります。
また、実は、この福井地震が発生した1か月後の7月下旬。今度は豪雨により堤防が決壊し、大水害が発生するという連続的な災害に見舞われました。この時の原因は、地震で堤防が沈降したからだという説もあるようですが、まさに、「泣きっ面に蜂」の状況だったわけです。
それでも、空襲、地震、水害と立て続けに不幸に見舞われても、福井市は復興を成し遂げてきました。まさに、不死鳥のようによみがえってきたわけですが、このことにより、福井市では、「福井市市民憲章 不死鳥のねがい」というものを掲げています。
福井地震から76年の今年、元旦早々、能登地震が発生し、その後、太平洋側、いわゆる南海トラフの周辺となるところでも、小さくはありますが度々地震が発生しています。いつ大規模な地震が発生してもおかしくないのが日本です。「備えを怠らない」これこそが、先人が経験してきた「災害復興」をムダにしない心構えではないか?と思う次第です。